交通

福江バスターミナルから五島バス戸岐行きで22分、堂崎天主堂入口下車徒歩12分

住所

建物

〒853-0053 五島市奥浦町堂崎2019 煉瓦造平屋 256平方メートル

竣工

設計・施工

明治41年(1908) 設計 ペルー神父  施工者 野原与吉

見学

公開 (0959)73-0705

 

 

 明治政府によるキリシタン禁制高札が撤去されるや、直ちにフランス人神父らが巡回宣教師として長崎の島々を巡り始めた。明治6年9月には信者の要請によってフレノー神父が五島へ出向き、堂崎に上陸した。当時フレノー神父は26歳の青年司祭で、神父は信者の家に寄寓しながら野外ミサを行った。日曜の野外ミサには千人が参加したという。同年12月24日夜、信者は堂崎の浜辺を埋め、松明は海に映えて、荘厳なミサと共に初めての降誕延祭を祝うことが出来た。

 明治10年にプチジャン司教はフレノー神父を専任の下五島巡回宣教師に任命し、神父の五島常駐が認められた。明治12年(1879)には堂崎に仮聖堂が建立されたが、翌13年にフレノー神父が神学校教授として新しい任務に着くことになり、マルマン神父と交替することとなった。着任したマルマン神父(1849〜1912)は住民の生活苦から生ずる間引きの痛ましい実態を知り、直ちに大泊に一民家を借りて、布教と同時に陽の当たらない子供達の救済に乗り出した。明治13年(1880)10月17日のことで、これが後の奥浦慈恵院のおこりである。

 この大泊の養護施設(子部屋)が狭くなったので、マルマン神父は明治16年にはこれを堂崎に移す一方、子供達の面倒を見る保母さん達の養成、隣人に奉仕しながら神に尽くす、つまり修道女の形態としての保母養成を始めた。常崎に於ける教会と修道院(おんな部屋)と養育所(子部屋)の運営が始まった(★1)。

 マルマン神父は仏道と社会福祉事業の実践に大きな足跡を残して明治20年(1887)8月堂崎を離れ、代わってペルー神父(1848〜1918)が当地に着任した。マルマン神父のあとを継いだペルー神父は、次第に増えてゆく信者と将来に備えて教会堂を建て替えることを決意し、フランスからの援助金等を投じながら、先ず明治37年に堂崎にあった養護施設の部分を現在の奥浦慈恵院の所へ移し、都合4年をかけて明治41年(1908)5月10日に現在の堂崎天主堂を祝別、完成させた。以後六十余年間、信者による礼拝は続けられたが、この建物は昭和49年4月長崎県指定有形文化財に指定され、これを期にミサを知らせるホラ貝の音も止んだ。現在は資料館として使用されている。

 堂崎天主堂建物の設計はペルー神父であり、施工は神父の指導を受けて福江市大工町の棟梁野原与吉が担当した。後の教会堂建築の第一人者となる鉄川与助も当時野原棟梁の下で修行を積んでおり、副棟梁格として参加したと言われている。
 
  建物は煉瓦造で重層屋根構成、正面は全幅にわたって玄関部となっており、その中央に方形平面の鐘塔がある。その平面の二分の一は前方へ突出して正面に変化を持たせ、鐘塔の頂部には切妻屋根を架ける珍しい景観をなしている。正立面は三層に分かれ、初層には尖頭アーチの出入口3ヶ所と、同じく尖頭形の開口2ヶ所がある。中層には円形のバラ窓が、上層には尖頭形の4連アーチ窓があるが両脇の2個はブラインド窓となっている。

 会堂の両側面には各5個の上部尖頭アーチ形縦長窓が並ぶ。各窓の外側は両外開き鎧戸、内側は内開きガラス戸が付されている。これらの窓は床面と同高に設けられているため、ここから会堂部への出入りが可能である。

 このような窓構成は現在宝亀教会堂にその類例を見るのみである。

 会堂平面は三廊式で、主廊部、側廊部各正面には多角形平面の主祭壇、脇祭壇が設けられ、内陣部を取り囲むように香部屋を設けている。外壁をなす煉瓦造の壁体は香部屋部分と会堂部とその煉瓦積工法が異なり、香部屋部分は長手積、会堂部はアメリ力積となっている。香部屋部分の建設時期がやや遅れたか、或いは後に改変されたものと思われる。なお公堂部には脇出入口は設けていない。主廊幅(N)は15.8尺、側廊幅(I)は7.8尺、列柱間隔は9.5尺(★2)で、N/I=2.0となり、その数値は完成期の値を示している。

 天井は主廊部、側廊部共に尖頭アーチを基調とした漆喰仕上げの4分割リブ・ヴォールト天井で、天井下地には竹小舞が使われている。天井リブが比較的細身のためか、堂内は繊細な雰囲気に包まれている。また、各列柱は角柱で、付柱も台座も無く初期的である。第一柱頭は簡素な植物模様が施され、その上部には3本の小円柱からなる付柱を持つ短い第二柱がある。その上部の第二柱頭の形態は鯛ノ浦或いは冷水教会堂のそれと類似している。

 内部立面構成はいわゆる第?群で、アーケード(第一アーチ)の頂点の位置は第二柱頭より高く、第二柱頭を連結する水平の装飾帯等は無い。教会堂建築の発展過程において、第二柱頭の位置は相対的に上昇して第一アーチの頂点とその位置を同じくするが、当天主堂はその前段の形態を示している。

 重層屋根構成を採りながらも、上下層の屋根高低差が少ないことからクリアーストリー(高窓)を設ける迄に至らない、つまり内部立面構成の充実に合わせて単層屋根構成から重層屋根構成へと発展していく教会堂建築の変化の中間過程に位置する遺構とみることが出来る。

 なお、川上秀人氏の調査(★3)によれば、上層屋根小屋組の架構がキングポスト・トラス工法と東立て式和小屋組とが混在しており、当初和小屋組であったものが、或る時宜(恐らく大正6年)に屋根勾配の変更を含む大改変が行われたものと推定している。

 ペルー神父設計の教会堂建築では明治28年(1895)創建の旧井持浦天主堂があり、煉瓦積み壁体にアメリカ積を採用するなど堂崎天主堂のそれと共通しているが、井持浦ではトラス小屋組であったのに対して堂崎では当初和小屋組であった等の差異がある。このことについて川上秀人氏は、共にペルー神父の指導を受けながらも、明治も40年代に入れば日本人大工の裁量に委ねられる部分も可成り出てきたのではないかと推定している。なお復原旧井持浦天主堂は両側面に2連アーチのアーケードを持つ特色ある天主堂であったが、昭和62年(1987)の12号台風により大破し、除却後は鉄筋コンクリート造で再建されている。

 

(★1)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
(★2)「長崎県建造物復元記録図報告書(洋館・教会堂)」(長崎県教育委員会、昭和63年3月)
(★3)川上氏は近畿大学教授で、上掲(★2)報告書における調査者。

 

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