江上教会堂は五島列島奈留島の西部、大串湾を前にして奈留瀬戸を望む江上集落の一角に、緑の樹々を背面にして前方の海へ向かってひっそりと建っている。
ここは福江港からの客船が着く奈留港から西海岸寄りの道を8km余り、車で20分程の所である。この辺り大串郷には昔から平家の残党が多数住んでいたとの伝説があるほか、千軒かまどと言ってその昔多くの人が居住していたが、一夜にして津波にのみ込まれて全滅したとの言い伝えがある(★1)。
奈留町の郷土史によれば、江戸時代初期における奈留町の人口は千人程度であったが、寛政9年(1797)の大村藩からの五島集団移住等によって人口は漸次増加していった模様で、江戸末期の安政3年(1856)には四百六十余戸、二千三百余人と倍増している。
いま島の玄関口となっている奈留港は天然の良港で、明治30年頃にはキビナ漁の漁 港として最盛期を迎えることとなる。また鯛の一本釣り、延縄漁(はえなわりょう)などの漁船が九州の各地から集結し、多いときには百余艘の船が湾内にひしめいていたと言う。その後大正末期から昭和にかけて、鰹釣の餌として鰯を供給するために港は活気を帯びるなど、この島は漁業を基幹産業として繁栄してきた。
一方キリシタン農民の移住した五島は僻地で傾斜のひどいところが多く、信仰復帰と言う一大偉業は成し遂げたものの、大正末期から昭和にかけての大恐慌等大きな経済変動にはひとたまりもなく、再び人間としての生活を求めて南米へ或いは福岡県新田原(しんでんばる)方面の新開拓地へと旅立っていった。ちなみに移住先の一つである福岡県新田原小教区における五島出身者世帯数(昭和50
年4月調(★2))は、仲知(53世帯)に次いで奈留(32世帯)、青砂ケ浦(23世帯)と続き、漁業の盛況が続くこの奈留島からも、農民を中心に新天地を求めて旅立つ者の多かったことを物語っている。
また奈留島は隠れキリシタンの多い島としても有名で、「長崎の教会(★3)」によれば「奈留町の人口五千三百人のうち約6割が隠れキリシタンで、3割が仏教徒、1割強がカトリック信徒である」としている。しかし宮崎賢太郎民(★4)は「現在に至るまでカクレキリシタンの組織が残存しているのは外海の出津、黒崎、五島の福江島、奈留島、若松町であるが、何れも崩壊寸前であり、或る程度健全な組織が存在し、信仰の継承が行われているのは生月島だけと言っても過言ではない」と記している。
当江上教会堂の建設年次については資料により異なるが、大正6〜7年(1917〜18)であることは間違いないようである。この時期は島田喜蔵神父(1856〜1948)が当地を司牧していた頃であり、発注者を島田師と記している資料もある。後に島田師の口述筆記を残された中田秀和氏の著書(★5)の著書によれば、師が奈留島小教区に行ったのは明治35年からで、当時の本拠である葛島(今は無人島)の教会に着任し、「着任後まもなく奈留島の相の浦と江上とにそれぞれ聖堂を建設した」と書かれている。これから考えると明治35年から間もなくの頃江上には聖堂が建てられ、その十数年後の大正6年頃に本格的聖堂として現在の教会堂が建設されたようである。なお長崎県教育委員会が昭和51年度に実施した悉皆調査「長崎県のカトリック教会」によれば、当教会設立は大正7年3月8日(法人台帳)とされている。
当教会堂建物の設計・施工者は、当時すでに教会堂建築の第一人者であった鉄川与助である。一棟毎に創意工夫をこらし、教会堂建築にかける情熱のとどまることの無かった鉄川与助の作った本教会堂は、長崎県下の木造教会堂建物のうち最も完成された遺構と言える。
江上教会堂は木造下見板張り、重層屋根構成、桟瓦葺きの建物で、軒に付けた持ち送り、軒天井飾りなどその外観造作は見事である。正立面は重層屋根をそのまま現した切妻で、塔屋は持たず、側廊部屋根の妻面をへの字型に仕上げて正面外観に変化を
与えている。
玄関部は主廊幅1間の踏込型で、上部円形アーチ形の吹き放ち入口が正面にあり、会堂部への出入口としては正面の両内開き扉と左右の片内開き扉を設けている。正面吹き放ち入口の上部には円形アーチを持つ縦長小窓が2面並び、その上部棟下に天主堂と書かれた額を掲げている。また正面入口の左右には上部円形アーチ型縦長窓を配する。会堂側面にも同形式の窓が各5面ならび、これらの窓はそれぞれ両内開きガラス窓と両外開き鎧戸がセットとなって構成されている。なお会堂部脇出入口は持っていない。
会堂内部平面は三廊式で、主祭壇は矩形、左右脇祭壇は浅い多角形平面をなしており、脇祭壇の左右後方には香部屋があり、主祭壇の後方に左右香部屋を結ぶ廊下がある。会堂内部主廊幅(N)は12尺、側廊幅(I)は7.4尺、列柱間隔は8尺(★6)で、N/I=1.
62と比較的小さく、数値的には初期的な特徴をそなえている。内部列柱は木目も鮮やかな円柱で、八角形の台上に円形台を二重に乗せる形の木製台座と、植物様の飾りを施した柱頭を有する。
天井は漆喰仕上げ4分割リブ・ヴォールト天井で、アーチはすべて円形で統一されている。内部立面構成はいわゆる第?群で、アーケード(第一アーチ)と壁付リブ、横断・交差リブのバランスは見事と言う他はない。疑似トリフォリウムもしっかりと確保されており、鉄川与助の精緻な技法に圧倒される。会堂床は縦板弧り、床面中央部長軸方向に寄せ木張りがなされており、一段上がった内陣部床は軸方向を変えた寄せ木張りで仕上がっている。会堂部と内陣部との境には、かつては美しい柵が設けられていたが、10年程前に訪れた時に取り外されており、鍵を開けてくれた地元案内者によれば、いつの間にか無くなってしまったとのことである。
また、2002年に県指定文化財に指定された。
(★1) 平山徳一「五島史と民族」(平成元年10月)
(★2) 木場田直「キリシタン農民の生活」(葦書房、1985年12月)
(★3) 力トリック長崎大司教区司牧企画室「長崎の教会」(聖母の騎士社、1989年3月)
(★4) H・チースリク監修、太田淑子編「日本史小百科<キリシタン>」(東京堂出版、平成11年9月)宮崎賢太郎氏稿より。
(★5) 中田秀和「隠れキリシタンから司祭に<トマス島田喜蔵神父の生涯>」(中央出版社、昭和56年8月)
(★6) 長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)付図より推定。
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