交通

長崎港から長崎汽船伊王島・高島行きに乗船、約20分で伊王島船津港下船徒歩10分

住所

建物

〒851-1202 長崎県長崎市伊王島町2-617 鉄筋コンクリート造平屋 340平方メートル

竣工

設計・施工

昭和6年(1931) 設計 不詳 施工者 不詳

見学

公開  (095) 898-2054

 

 

 

 

 

 

 

 長崎湾の入口付近に伊王島と沖ノ島がある。両島は接近していて3橋で結ばれており、2島であることを感じさせない。この付近は高島と共に良質の石炭を産出するところで、その栄枯盛衰は激しかったが、伊王島は今リゾートの島として発展している。島の人口千数百人の約6割が信者と言われ、特に島の北方にあたる伊王島大明寺部落(愛知県明治村に復元移築された旧大明寺教会堂のあったところで、現在は昭和45年に建設されたモダンな大明寺教会堂がある)と南方の沖ノ島馬込部落に力トリック教徒が集中している。ここは神ノ島と同様、禁教の時代には交通不便な島として潜伏するのには都合が良く、島原の乱以降天草その他の各地からキリシタンが避難してきたが、明治の初期までの弾圧の厳しい時代には部落民全員が船で他所に避難し、追求が緩めばまた戻ると言った苦難が続いていた。

 明治4年(1871)に「椎山小聖堂」と称する木造瓦葺きの会堂が馬込信者一同の手で作られた。これが馬込教会の始まりである。明治4年といえば未だ禁教下にあったが、この小聖堂は奥行4間、間口2間のものであったと言う(★1)。

 その後、明治12年(1879)に大明寺部落に旧大明寺教会堂が建てられて両島信者の信仰の中心となっていたが、明治23年(1890)にマルマン神父(1849〜1912)の手で馬込の現在地に煉瓦造の本格的天主堂が建設され、続けて司祭館も建設されて、明治25年には創建馬込天主堂は伊王島全島の布教の中心となっていた。この天主堂は、煉瓦造教会堂としては旧大浦、出津に次ぐ最初期のもので、川上秀人氏によれば「その教会堂は重層屋根構成で内部立面構成は第V群(もしくは第?群)(★2)」とされているので相当に完成度の高いものであった。

 この創建馬込天主堂の建設には、後に黒崎教会堂を施工した外海黒崎出身の大工川原忠蔵(1861〜1939)が関わった(★3)と言われている。なお、これを指導したマルマン神父はその後奄美大島、琉球の布教を経て明治30年に黒島に赴任し、明治35年(1902)には時代を画する完成度の高い黒島教会堂を建設した神父である。

 創建馬込天主堂は現存すれば大変貴重な遺構と考えられるが、残念なことに昭和2年、昭和5年と続いた台風等により尖塔が倒壊し、使用不能となってしまった。特に昭和5年(1930)7月18日長崎地方を襲った台風は強烈で、創建中町天主堂(明治29年献堂、昭和20年原爆により崩壊)の高塔が吹き飛ばされたと言われている。

 伊王島では信者達の間でまもなく再興の議がおこり、再建に当たっては台風にも耐えられるよう鉄筋コンクリート造の教会堂とすることを決め、昭和6年(1931)3月に着工し、同年10月に竣工したものが現在の馬込教会である。

 長崎に於ける初代邦人司教であった第五代早坂久之助司教(1883〜1959)は関東大震災の経験から教会堂の耐久・耐震化を強力に推進し、昭和4年から6年にかけて長崎県下に建設された6棟の教会堂(紐差、下神崎、馬込、三浦町、平戸、浜脇)の鉄筋コンクリート造化の実現に力を尽くしたと言う。

 再建馬込教会堂建物の設計者は不明であるが、工事は地元伊王島船津の大工棟梁大和和吉が施工し、松岡孫四郎神父が指導したと言われている(★5)。

 当教会堂は階段を登った正面中央に大尖塔(鐘塔)、その左右に小尖塔を有し、各尖塔の四周には更に尖塔状のオブジェ等を置くなど、その正面は尖塔群による垂直性強調の意図がはっきりと窺える。会堂本体は重層屋根構成で屋根は瓦葺き、上層の外壁には柱間毎に円形のブラインド窓が配置され、それぞれに円弧を組み合わせた紋様が施されている。

 また、下層外壁には各柱間に2個の上部尖頭アーチ形縦長窓が並び、その上方軒下には鋭い鋸歯状の装飾帯が施されて会堂の周囲を巡っている。

 会堂出入口は3ヶ所で、正面玄関部は三方吹き放ちとなっており、玄関部から会堂部へは中央に両開き、その左右に片開きの扉を有し、また会堂側面の出入口は二方吹き放ちとなっており、左右に張り出した出入口の屋根上にも十字架をかたどったオブジェ群を立ち上げている。

 内部平面は三廊式、主廊部第一間上部が楽廊となっており、主廊部正面には多角形平面の主祭壇、側廊部正面には左右脇祭壇を設けている。主廊幅(N)は18.O尺、側廊幅(I)は8.6尺、列柱間隔は12.O尺(★6)で、N/I=2.1となる。この数値は標準的なものといえる。

 天井はすべて8分割リブ・ヴォールト天井で塗り仕上げとなっているが、リヴが若干太いのと天井面の着色の関係でやや重苦しい感じがする。堂内のアーチは全て尖頭型であり、列柱は台座、柱頭を有する鉄筋コンクリート製の太い円柱で、第二柱は束ね柱の形を作っている。

 内部立面構成はいわゆる第?群で、主廊部壁面のアーケード(第一アーチ)の上部には奥行きのない疑似トリフォリウムを作りだしている。外から望まれる上層壁面の円形ブラインド窓部分の内側は白壁のままの堂内仕上げとなっており、いわゆるクリアストリー(高窓)は存在しない。

 会堂部床面は縦板張り、正面及び両側面出入口と主祭壇を結ぶ線上十字形に斜材を帯状に入れて床仕上げを変えているほか、内陣部床面の一部にも斜材を用いた仕上げがみられる。

 鉄筋コンクリートという比較的造形上の自由度の高い素材を用いて建設された前記6棟の教会堂のうち、紐差を除く5棟が正面に鋭い尖塔を上げ、いわゆるゴチックの形式を採っているのは時代のなせる技であろうか。一方、同時期に紐差或いは手取、大江の各教会堂においてこれとは違った形式のものを建設していた棟梁建築家鉄川与助の存在があった。

(★1)山口光臣「長崎に於ける幕末および明治初期教会堂建築と伊王島大明寺教会堂建築について」(建築学会論文報告集第254号、昭和52年4月)
(★2)川上秀人「教会堂建築の時代区分について」(建築学会中部・九州支部研究報告第75号、昭和62年3月)
(★3)「宝亀小教区100年の歩み」(宝亀力トリック教会、昭和60年12月)
(★4)福江教会の浜崎勇師のご教示による。
(★5)長崎県教育委員会「長崎県のカトリック教会」(長崎県文化財調査報告書第29集、昭和52年3月)
(★6)上掲書添付図より推定。

 

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