交通

福岡天神駅から西鉄久留米方面行き急行電車で約30分西鉄小郡下車タクシーで約15分。又は西鉄久留米駅で西鉄甘木線に乗り換えて約30分、大堰下車徒歩約20分

住所

建物

〒830-1223 福岡県三井郡大刀洗町大字今707 煉瓦造平屋 640平方メートル

竣工

設計・施工

大正 2年(1913) 設計 鉄川与助 施工者 鉄川与助

見学

公開 (0942)77-0204

 

 

 

 今村は福岡、久留米に近い割には今でもあまり交通の便がよいとは言えない所である。明治12年(1879)に今村を訪れたコール神父は今村と天草を担当しており、各地を巡って宣教を行い、また信徒の存在を調べて歩いた。翌年ソーレ神父が今村に定住することとなり、明治14年(1881)には間口6間、奥行10間の木造聖堂を現在地に建設し、同年8月2目にプチジャン司教がこれを祝別した。年報によるとこの年に千人弱の人が洗礼を受けたと言う。その後も今村の信徒の数は急増し、明治17年には千四百人余り、明治20年には千七百人に達し、その間暫時聖堂の拡張により対処していた明治22年2月にソーレ神父が久留米へ移り、以後2代の神父を迎えた後明治29年(1896)9月から本田保神父が今村の主任となった(★1)。その後も信徒数の増加は続き、明治32年には千九百人弱、明治末年には二千人を超えるまでになっていた。

 本田保神父(1855〜1932)は長崎浦上の出身で14歳のとき母と妹と三人で配流を経験された人である。着任後も続く信徒数の増加に対処し、同神父の布教活動25年をも記念して、明治41年にここ今村に煉瓦造による大規模な教会堂の改築を発起し、直ちに資金準備に入った。フランスを中心に外国からの寄付、地元信者の拠金集め、ブラジル移住者からの寄付その他信者の労働奉仕を前提に明治44年(1911)に着工、大正2年(1913)12月9日に現教会堂の完成にこぎつけた(★2)。なおこの教会堂の建つ敷地は殉教者「ジョアン様(或いはゼーアン様)」の墓と言われている。ジョアン又右衛門がどこの人で、いつ殉教したのか分からないが、地元の人達は殉教者として尊敬していると共に、この「ゼーアン様」に対する崇敬の念が潜伏時の精神的な支えとなったとも言われている(★3)。

 鉄川与助かこの教会堂の設計・施工者として情熱を打ち込んだことは、晩年の与助がこの教会堂を懐かしみ幾度となくここを訪れたことにも良く表れている。鉄川与助かこの教会堂建物を建設している頃は丁度旧浦上天主堂(明治28年フレノ神父によって着工、大正4年双塔の上部を残して献堂式を挙行、大正14年に完成、昭和20年8月原爆により倒壊)が建設途上にあり、今村に於ける双塔を持つ教会堂建設の発想はこの旧浦上天主堂の計画と関係が深いように思われる。今村教会堂建設中も鉄川与助はしばしば浦上天主堂の工事現場を訪れている。

 鉄川与助の準備は周到に行われた。全予算は約三万円、当時の大工手間賃が65〜75銭の頃である。地盤は悪く、長さ72尺、末口1尺余の松杭を基礎下全面に打ち込んだ。煉瓦は筑後川下流の迎島にある五つの工場で焼成させ、瓦は同じく筑後川を挟んだ対岸の城島で焼かせた。煉瓦、瓦は途中の木橋等に手を入れながら荷馬車で今村まで運んだと言う。柱材は久留米の高良山に産する高良杉を伐りだし、石材は浮羽町山北から切り出した。信者達の労力奉仕は勿論であったが、本田神父と鉄川与助による材料の吟味はまた極めて厳しかったと言う。

 特に煉瓦についてはこれまで現在の煉瓦より薄手の筑前レンガ或いはコンニャクレンガを作っていた工場を督促して、現在と同様の寸法のものを作らせたため返品が多かったと言われ、また彫刻に用いた石は地元産ではなく長崎県西見から運んだものを用いた。更に軟弱地盤対策には苦心の跡が見られ、セメントの入手が難しいことから、松杭を打ち込んだ上の基礎には五島の岐宿産の火山灰と、筑後川流域産の砂と、熊本産の石灰を混ぜて使用した。なお現存するステンドグラスはフランス製で大部分が創建時のものと言われている。工事は鉄川与助か連れてきた長崎の職人15〜16人と、その他久留米の職人数人及び地元信徒の多くが人夫としてこれに加わることで進められたが、設計者は勿論、この様に建材の産地から職人の数等まで判明している教会堂建物工事例は大変珍しい(★4)(★5)。

 今村教会堂建物は煉瓦造、重層屋根構成、桟瓦葺きで正面に二つの塔を抱えるように特つことが特徴的である。八角形の双塔の間に上部円形のアーチ形の正面入口を持ち、玄関部は前面に3ケ所、左右側面に各1ケ所の開放入口を持っている。会堂部への出入りは玄関部から正面の両内開き板扉及びその左右の片内開き板扉によっている。また双塔への登路は玄関部内側から螺旋階段を利用し、二階楽廊への出入りもこれを利用する。なお鐘塔として使用しているのは正面向かって左側の塔屋のみである。

 正立面は双塔を含めて大きく三層に分かれ、軒下或いは水平区画にはそれぞれロンバルディアベルトが付されている。その第一層は玄関部開放入口で占められるが、正面入口の石材を用いた側柱と三重になった上部アーチは年を経ても重厚さを失うことはない。第二層は双塔に挟まれたかたちで三連の上部円形アーチ形縦長窓とその上の丸窓が一体的に設けられている。なお双塔の各面にはブラインド窓が多用されている。双塔に挟まれた第三層は円形のブラインド窓を置き、中は煉瓦を用いた花柄の文様をあしらっている。切妻屋根の上に出る双塔の最上層は各面に縦長窓を持つが、右側の塔はブラインド窓である。塔屋最上部各面には煉瓦による多様な凹凸を作るほか、軒下にはロンバルディアベルトを回し、その上には銅板葺きの八角ドームを乗せている。なお、この双塔の高さは避雷針まで入れて22.5mである。

 建物側面にはその中央付近に左右脇出入口を設け、バラ窓を備え切妻屋根を乗せた脇玄関を張り出しているほか、側壁各スパンには、二連の上部円形アーチ形縦長窓とその上部に円形窓を組み合わせた窓が配置されている。この窓形式は原爆で倒壊した旧浦上天主堂にも用いられていたもので、昭和期に入って鉄川与助の設計した鉄筋コンクリート造の紐差或いは大江教会堂にも用いられている。建物側面の重層部分の外壁は木造下見板張りで、大きめな円形窓が8個並んでいる。

 内部平面は三廊式で、玄関上部が楽廊となっている。主廊部の正面には多角形平面の主祭壇があり、側廊部正面は平面的には特別な造りはしていないが、壁面は副祭壇として使用されている。祭壇の裏側は香部屋となっているほか、主祭壇上部ヴォールト状に立ち上げた天井面近くに上部円形アーチ形縦長窓が5面配置され、祭壇部の明るさと祭壇への意識の集中に寄与している。会堂部床は欅材による縦板張りで、一部に化粧寄木張りがなされている。

 主廊幅(N)は24尺、側廊幅(I)は12尺、列柱間隔は12尺で、N/I=2.0となる。天井は主廊部、側廊部共すべて円形アーチを基調とする板張り4分別リブ・ヴォールト天井である。基部で径1.3尺を擁する列柱は石造の台座と木製の彫刻を施した柱頭を有する丸柱で、第一柱頭の上部でも木製の台座形をしっかりと形作り、その上からは束ね柱の形式をもっか第二柱が上方へ伸びて第二柱頭に達する。内部立面構成はいわゆる第「群で、トリフォリウムは充分な高さと奥行きを有し、4連アーチを構成する5本の小柱にも台座・柱頭を形作るなど細部に至るまで入念な設計施工がなされている第二柱頭を水平に結ぶ装飾帯もしっかりしており、その装飾帯上の水平材と壁付リブに囲まれた壁面は板張りとし、その中央に円形のクリアストリー(高窓)がバランス良く収まっている。

 このように当教会堂建物はその発展過程からみてもリブ・ヴォールト天井形式の教会堂建物における完成形をなしており、また設計・施工者が当時の当地域に於ける第一人者である鉄川与助であり、併せて建築に使用した材料とその生産地に至るまでよく記録されていることから建築技術史上からも極めて貴重な遺構と言える。旧浦上天主堂を原爆により失った今日、同じ鉄川与助か設計・施工した田平教会堂建物と共に永く保存の手を差しのべてほしい建物である。

 

 

(★1)カトリック福岡教区「福岡教区50年の歩み」(聖母の騎士社、昭和53年5月)
(★2)池田敏雄「人物中心の日本カトリック史」(サンパウロ、1998年8月)
(★3)H・チースリク監修、太田淑子編「日本史小百科<キリシタン>」(東京堂出版、平成11年9月)小川早百合氏稿より。
(★4)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年7月)
(★5)佐久間巌他「所謂「かくれ切支丹」の里、今村カトリック教会に就いて」(建築学会九州支部研究報告第16号、昭和42年2月)

 

 

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