明治25年(1892)に天草に着任したガルニエ神父(1860〜1941)が当時本拠とした大江の天主堂は、今の司祭館のある場所に「六角棟の異様な風景をした教会堂(★1)」として建っていた。その横にあるたった一間の6畳程の部屋がガルニエ神父の居間になっていたという。この異様な風景をした教会堂が、明治15年にフェリェ神父が着任して大江村野中に建てたという教会堂と思われるがその詳細は不明である。
ガルニエ神父は来島以来信徒の司牧と孤児の養育に寝食を忘れて取り組んだが、一方質素な生活もまた有名であった。それも少しでも貧しい人の為のものであったが、今一つ新しい教会堂の建設の宿願を持っていた。現在と違い、いわゆる福祉事業など皆無の時代、孤児や未婚女の出産した子供、極貧家庭で養育困難な子供等が放置されるのを見かねて、神父は子部屋と呼ばれる孤児院の経営に着手した。すでに前任のフェリェ神父の時代に開設していたものを所在地の苦情を受けて場所を根引峠に移し、収容児30人を超えてもその費用はすべて神父がまかなっていた。学齢期になると約4kmの山道を小学校へ通わせ、この根引峠の子部屋は明治40年まで15年間続けられた。その間、ガルニエ神父を父とし母とした数々のエピソードが今も伝えられている。また、ガルニエ神父は時折訪れてくる旅人に対して和やかに迎え、親しみを持って対応している。新詩社の与謝野鉄幹に率いられた北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の多感な青年詩人の一行が九州のキリシタン遺跡を巡遊し、大江天主堂を訪ねたのは明治40年8月11日であった。
32歳で天草に来てから一度も故国へ帰ることもなく40年近く、70歳を超えたガルニエ神父は自らの達者なうちに新しい近代的な教会堂建設の宿願を遂げたいと考え、その計画に着手した。教会堂の建設には二万五千円の資金が必要であった。二万円は神父の私財を投ずることとし、五千円は村の信者や他郷に出ている信者の寄付で賄うこととしたが、内部の祭壇その他装飾や設備になお数百万円の費用がかかることが分かり、神父の心痛は一通りではなかった。
設計・施工者は教会堂建築の第一人者である鉄川与助と決めていた。古い天主堂の西側に信者の奉仕によって敷地を開き、昭和7年(1932)5月に起工式を挙げて教会堂は着工された。この神父の宿願を実現する鉄川与助による新しい教会堂は昭和8年(1933)1月に完成、同年3月25日祝別、奉献された。この時の信徒数は802人と記録されている(★2)
教会堂建物は単層屋根構成、切妻屋根瓦葺きで、正面中央に方形平面の鐘塔を設け、その頂部には八角のドームを乗せている。これは手取教会堂のそれと同様である。正面構成での手取教会堂との違いは、正面中央入口の左右にあった窓が左右開放入口に変わっていること、正面中央第二層にあった丸窓が中央をやや高くした三連の上部円形アーチ形縦長窓に変わっていることであり、また手取教会堂に見られた壁体表面に付された溝やロンバルディアベルトは無くなり、この様な細工物を無くしたことがかえってデザインを簡潔なものし、周辺環境ともマッチした実に堂々とした印象を与えている。正面全幅が玄関部として利用され、その上部は楽廊となっている。会堂両側面には左右二ケ所の脇出入口を持つほか、側面の各窓は二連の上部円形アーチ形縦長窓の上に丸窓を置く形式を基本としている。これは今村教会堂における窓形式と同様である。
内部平面は三廊式で、主廊部、側廊部各正面にはそれぞれ主祭壇、脇祭壇を持つが、主祭壇を矩形平面とするなどその造作は比較的簡素である。主廊幅(N)は24尺、側廊幅(I)は12尺、列柱間隔も12尺で、N/I=2.0となっている。
脇祭壇の裏側は香部屋となっており、主祭壇の上部天井に近い位置には上部円形アーチ形縦長窓が左右二面配されている。この二面の窓の間、つまり主祭壇の上方には、聖母マリアと大天使ガブリエルを描いた大きな油絵が掲げられている。この絵はガルニエ神父の姪のルイズさんが、長い間の念願であった新しい教会堂を完成させたガルニエ神父への贈り物として精魂込めて描き、フランスから送ってきたものである(★3)。
天井は主廊部は析上天井、側廊部は平天井で各格縁の間には花弁をあしらった装飾が付されている。内部列柱は上部をやや細めた円柱で、八角形の台座と植物模様を刻した柱頭を持つ。列柱間に設けられた半円アーチ形のアーケードの上の主廊壁面には5連の円形組長アーチが刻され、疑似トリフォリウム風に仕上がっている。
床は中央通路部分は板張り、信徒席の部分は畳敷きである。会堂全体としては簡素な作りとなっているが、ガルニエ神父の苦労を目の当たりにした鉄川与助か、自らの信念を通しながらも各所に工費節減の知恵を絞ったであろうことをうかがわせる建物である。
鉄筋コンクリート造教会堂は鉄川与助としても手取、紐差に続く三例目であったが、この間鉄川以外の設計者による鉄筋コンクリート造教会堂が下神崎、馬込、三浦町、平戸、浜脇と五例誕生している。これらは全て鉄川と設計思想を異にし、何れも天井はリブ・ヴォールト天井を採用し、各アーチ、窓形式等は尖頭形である。また正面中央にそろって鋭い尖塔を持ち、強い垂直性を強調したものとなっている。これに対して鉄川与助の三例はそろって八角ドーム屋根の鐘塔を持ち、天井は析上天井で構成され、窓形式は円形アーチ形である等極めて対照的である。
造形の自由度に優れた鉄筋コンクリートの特性を生かす面では、鉄川以外の設計者の採った道はこれまでの延長線上にあり、たとえば垂直性のさらなる強調の為に鉄筋コンクリートの持つ特性を活用するといった新素材を生かす時代の流れに沿ったものと言える。これに対して鉄川与助は自ら煉瓦造教会堂を完成の域まで到達させたとの自信の上に立って、新しい建築材料を得て、構造と意匠の一体化の観点から次の時代を画するものとして折上天井形式を発展させようとした。その最後の作品として世に問うたのがこの大江教会堂の建物である。
(★1)浜名志松「天草の土となりて・ガルニエ神父の生涯」(日本基督教団出版局、1978年7月)
(★2)カトリック福岡教区「福岡教区50年の歩み」(聖母の騎士社、昭和53年5月)
(★3)上掲(★1)「天草の土となりて・ガルニエ神父の生涯」 |
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