雪の聖母聖堂は福岡市中央区大名町にあった旧大名町天主堂を昭和59年12月に解体し、昭和61年(1986)3月に久留米市津福本町所在の久留米聖マリア病院構内に付属聖堂として復原移築したものである。復原設計指導は九州大学の土田充義、川上秀人両氏が担当し、設計施工は(株)戸田建設九州支店がおこなった。
福岡への宣教は明治20年(1887)エミール・ラゲ神父によって開始されたが、この当時の福岡には一人の信者も居なかった。九州地区の組織的宣教を決意したラゲ神父は旧称橋口町、現在の天神四丁目に民家を借りて布教の根拠地とし、講演会形式による直接布教を試みた。長期間続いたキリスト教に対する偏見と寺院寺僧による妨害で宣教活動は困難を極めたが、神父の三年間の在福中36人に洗礼を授け、その受洗第1号の誕生は明治21年5月20日であった。明治23年11月ラゲ神父は福岡を去り、後を継いだのがアルフレッド・ルッセル神父である。
日本語が不自由であったルッセル神父は宣教の難しさをパリ外国宣教会報告に記しているが、二年間の在福中に27人に洗礼を授けたほか大名町教会の西側半分の土地を購入した。この土地は黒田家の家老斉藤家の所有で、一旦第三者に売りその人からあらためて神父が購入することで、斉藤家が南蛮人に土地を売ったと非難されることを避けたと言う。苦労の多かったルッセル神父は明治25年末に福岡を去り、明治26年にエドワード・ベレール神父が来福する。
ベレール神父は明治14年に来日し、長崎の小神学校で教鞭をとった後5年間伊王島教会に司牧し、その後3年間大分、中津、竹田、臼杵、高田などを巡回し宣教に努めたことがある。その過労がたたって明治23年には療養のため一旦フランスに帰国するが、再び日本に戻り直ちに福岡に派遣されたものである。
当時の福岡は人口5万3千人の大都会に信者35人という厳しい状況にあたが、宣教に心をくだく中で「人々の目を引く美しい教会を建てよう」と決意する(★1)。神父はパリの「勝利の聖母教会」に聖堂建設の援助を依頼、フランスの多くの人達から贈られた寄付をもって明治27年に聖堂は着工された。そして2年後の明治29年(1896)に赤レンガの聖堂は完成する。 これが旧大名町教会堂、現在の雪の聖母聖堂である(★2)。聖堂の生みの親であるベレール神父は実に26年間大名町教会の主任をつとめ、教会敷地の拡張などを行ったが、晩年に病を得てフランスに帰国する大正8年まで福岡の宣教に専念した神父である。
この頃福岡には煉瓦造りの建築は一つもなく、市内に煉瓦造りの洋館建築が建つのはおよそ十年後のことであり、全国的にみて福岡での煉瓦造りの建物の出現は遅れていた。この聖堂の設計者、施工者が誰で建築費がいくらであったか等は分からない。明治初期に来日した神父達がそうであったように、ベレール神父もまた設計等について得意としていたと言われ、恐らく設計監督はベレール神父であり日本人の職人を使って建てたものであろう(★3)。
聖堂建物は単層屋根構成、切妻屋根桟瓦葺きで正面の破風を石造として一段高く立ち上げ、その頂点に十字架をかかげるが鐘塔等の付加物は無く、壁面を支える控壁の力強さも加わって工場建物のように見える。正面の切妻屋根を乗せた玄関部は主廊幅にも満たない小規模なもので、上部円形アーチ形の吹放ち入口を持ち、アーチの上に公教会の文字を入れた円形石板を置いている。玄関屋根上部には大きなバラ窓があり、その上部にも天主堂の文字を入れた円形石板がある。正面玄関部の左右やや高い位置に上部円形アーチ形縦長窓が配され、全体として簡素ではあるが正面幅に対して軒高が高く、レンガ壁面の大きさが印象的な建物である。
建物の左右側面には柱間毎に上部円形アーチ形縦長窓が設けられ、会堂部前方の内陣部に近い位置に左右出入口を、またその先1間置いて左右香部屋への出入口を設けている。これら出入口の上部には丸窓を置いているが、屋根は差し掛けの簡単なものである。
内部平面は三廊式で主廊部正面に多角形平面の主祭壇を持ち、特に脇祭壇は設けていない。現在は左側廊正面内陣部にパイプオルガンが組み込まれており、私が訪れた時には福岡市内から来たというお下げ髪の女子学生が独り、静かなオルガン演奏を続けていた。
天井は主廊部、側廊部共板張り4分割リブ・ヴォールト天井で全てのアーチは円形である。主祭壇上部の天井に近い位置に3面の上部円形アーチ形縦長窓が置かれ、落ち着いた堂内に静かな光の帯を落としている。会堂内部主廊幅(N)は18尺、側廊幅(I)は9尺、列柱間隔は9尺(★4)で、N/I=2.0となる。内部列柱は丸柱で八角柱上に円板を重ねた形の台座とやや木目の粗い混合様式の柱頭を持つ。
内部立面構成はいわゆる第「群で、内部列柱は第一柱頭の上に伸びる第二柱を持ち、第二柱も簡単な台座と柱頭を持っている。第二柱頭下部がア一ケード(第一アーチ)頂点と同高の位置にあるが、第二柱頭を横に結ぶ水平材は表出することなく、第一アーチと壁付リブとの間の主廊部壁面は無装飾の漆喰壁となっている。なお屋根小屋組は洋小屋で、屋根瓦の選定と併せて耐久性の向上の為に入念な施工がなされていたと言う。
赤レンガの聖堂として福岡市民に親しまれていた建物も、40年を経た昭和11年には信者が千人を超える事態を迎え、いよいよ手狭となってきた。新聖堂の建設が計画され昭和13年には隣接して木造新聖堂が建築され、役割を終えた旧聖堂は託児所などに使用されていた。戦災は免れたものの、その新聖堂も自動車の振動と白蟻による被害を受けて老朽化が急速に進み、昭和50年代後半になると福岡カテドラルセンターの建設計画が具体化していった。これと同時に旧聖堂解体の情報がマスコミ等に伝わり、赤レンガの聖堂が明治期の洋風建築として貴重であることが報道されると、旧聖堂保存の要望が市民文化団体から出された。幸いにして九州大学の土田充義氏の熱心な奔走と、久留米聖マリア病院の井出一郎院長の決断によって赤レンガの聖堂は同病院構内に復原移築することが出来たのである。
(★1)カトリック福岡教区「福岡教区50年の歩み」(聖母の騎士社、昭和53年5月)
(★2)大名町カトリック教会「大名町教会百年史」(葦書房、1986年4月)
(★3)石井邦信「パリスミッション福岡・大名町教会について」(建築学会大会学術講演要旨集、昭和37年9月)
(★4)太田静六「長崎の天主堂と九州・山口の西洋館」(理工図書、昭和57年5月)
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